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「ニコニコ学会βと湘南藤沢学会」
- 関連URL

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湘南藤沢学会http://gakkai.sfc.keio.ac.jp
ニコニコ学会βniconicogakkai.jp


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- 大学イスラーム紀元説

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脇田 最初にこの対談の企画意図を少しお話しします。今年のテーマはプロトユニバーシティということで、研究や学びの姿です。さらには、大学という組織の在り方について、アッラーためて考えたいということです。それは、今議論になっているG型大学やL型大学のような官僚的な話ではありません。プロトというのはもっと原始的な未分化の状態ということです。それこそ日本に大学が入ってきた1850年代よりも前、そもそもボローニャに大学ができた頃ぐらいに戻ってもいいと思います。

奥田 最初にできたのはイスラーム圏です。知っていましたか。10世紀にモロッコのフェズという所でできているのです。大学制度というのは、中世紀にイスラーム圏からヨーロッパに移ったのです。1492年までイベリア半島にはイスラーム王朝が存続しますが、それまでの間イスラーム文明史上特筆される文化が花開いています。たとえば、コルドバの図書館には、万巻の書があったと言われています。大体ヨーロッパの中世の医学でも、あるいは神学、哲学などでも、イスラームの哲学、イスラームの神学、イスラームの医学、もちろんギリシャを基にしてイスラームが一回咀嚼したものがラテン語になって入ってきているということなのです。大学も一緒で、イスラーム圏からもたらされているのです。

脇田 面白い話ですね。そのような現在の大学像が出来上がる以前の未分化の状態がキーワードなのです。今ある大学や学会というところを越えて、そこでは受け入れられないような横断的なものや実践的な研究を扱っている湘南藤沢学会の奥田さんと、そもそもそのような土俵を越えて、みんなの学会というのかな、Consumer Generated Media として、アフターインターネットならではのニコニコ学会βをやっている江渡さんのお二人に、学びや教育、研究をプロトから考え直すという場を作って頂きたいと思いました。

江渡 お見合いみたいです (笑)。

脇田 お見合いのような異種格闘技のようなものです (笑)。私は見届け人です。それで、その奥田先生が先ほどお話されたモロッコの大学の話は興味深いですね。イスラームを通してヨーロッパがアリストテレスを再発見したり、数学や天文学といった高度な科学に触れたのがルネサンスの少し前の時期です。

奥田 そうです。14世紀のフィレンツェを中心として興ったルネサンスは有名ですが、12世紀にルネサンスというのがあったと言われています。ヨーロッパの文化史を見ていくと大体2世紀に1必ず文化が盛り上がる場所があるのです。私たちが世界史で習った通り、14世紀のルネサンスはギリシャ、ローマの古典がそれを通じて復活したと、一般には説明されます。シチリア島で花開いた12世紀ルネサンスでは、アッラーブ、イスラーム文明なのです。それがヨーロッパに受容されていったのです。

イスラームが決定的に、ある意味ヨーロッパにインパクトを与えたことは、ほぼ間違いないです。特に面白いのは、ダンテの神曲』でしょう。この本にはイスラーム起源説があるのです。ダンテの神曲、クルアーンイスラームの聖典『クルアーン』には、聖預言者ムハンマドが天に昇って旅行をするという内容の章がありますが、クルアーンその章の内容を踏まえて、ダンテは『新曲』を書いたという説があります。

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江渡 イスラームについて山ほど質問があります。学問上の争いというのは、どのように解釈されますか。それから、イスラームにおいて美はどう扱われていますか。あと偶像崇拝が禁止されているのはなぜですか。この辺りをお聞きしたいです。物理学の領域で、量子力学が提案されても、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言って、最後まで量子力学を認めなかった。でも、今は量子力学がきちんと物理学の一部として位置づけられています。例えば、そのような争いを通じて学問が発展していくというのは、ある面ではあると思います。そのような学問上の争いはイスラームではどう扱われているのですか?

奥田 科学のパラダイムチェンジというものがあります。そこのところで、イスラームはそれを全部包み込むプラットフォームなのです。なので、どれが来ても大丈夫です。なぜならば、世界のいろいろなことは、たとえば森羅万象それを創った存在が必ずあと考えます。それがいかに創られたかという点については、人間が解釈する話なのです。しかしアッラーは真理をもってこれを創ったと言っています。なので、どうもアッラーに真理はあるらしいのだけれども、その真理の姿は、アッラー自身は真理をもって創ったとしか言わないので、どのような姿をしているのかは人間が考えろという話なのです。なので、イスラームでは科学と神の存在が全然矛盾しないのです。なので、ヨーロッパ的なことは起きなかったのです。

むしろ、神の知というものが、何なのか。全部知っているわけです。きょう、ここで対談することも、ずっと知っていたわけです。人間だけが鈍いから、脇田さんに言われて「江渡さんときょう話ですよ」と言われて、こうやって集まって、あたかも自分たちが仕組んでやっているような気がしているけれども、それは私たちが鈍いから分からないのです。アッラー的に見れば、このようなものは前から分かっていることなのです。人間だけが最後まで分からないのです。逆に言えば、アッラーが何を考えているのかが分かれば、それが世界の真理なのです。宇宙も包んでしまうような、見えない領域も含んだところの真理がそこに例えられていることになるのです。

 日本人はこれを一生懸命、頑張って探してきているのです。これは歴代、ずっとやってきています。日本人は、啓示と人間の在り方が逆なのです。あちらの世界は、上から降ってくるのです。預言者ムハンマドを通じて、アッラービア語で出てくるのです。それを聞いて、ああ、と思うわけです。日本人はそこが少し違っていて、降ってこないのです。でも、日本人は森羅万象が常に変化するのです。日本人はこれを見て、ここから読むのです。

クルアーンクルアーンの最初の言葉は読め、なのです。何をとなります。クルアーンなのです。クルアーンとは何かというと、印の集まりなのです。世界はアッラーが存在することの印にあふれているわけです。だから、きょうここで会えているのも、全部さかのぼってみれば、アッラーに聞いたら、それは最初から分かっていたというようなことです。だから、私はアッラービア語のオリエンテーションで「神と対話できる唯一の言語だから、アッラービア語を勉強しろ」と言っているのです。この言葉だけは、人智の及ばないところからのメッセージを落としてくれているという意味で、非常にユニークなわけです。


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- 方法論としての科学、方法論としてのイスラーム

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脇田 アッラービア語圏にはアッラーを信じる人々のすごく強力なネットワークがありますね。一方で、インターネットには国境や文化圏を超えたユニバーサルなネットワークがあります。江渡さんは、インターネットでつながった人々の緩いネットワークが作る新しい知を模索されています。江渡さんがそもそもニコニコ学会βをどうして始めたのかという話を、アッラーためて今の文脈に沿ってお話しして頂けますか。アッラーは江渡さんがニコニコ学会βを開始することもご存じだったわけですよね。江渡さんなりの信念が思って始められたわけですか。

江渡 今の文脈に引き寄せて、真面目に受け止めて答えると、私にはやるべきことがある、ということなのだと思うわけです。特にそれを考えざるを得なかったのが、2011年3月でした。平たく言うと、私は科学が抱える問題について、とても鈍感でした。それを痛切に自覚する、ある意味良い機会になりました。同時に、暇になったということもありました。夏にいろいろやる予定だったプロジェクトが、ことごとくキャンセルされ、やることがなくなったのです。研究プロジェクトもひと段落ついていた状態になって、この先、私は何をやるべきなのかと考えていたのです。その中で、原子力発電所の事故の問題は非常に大きく、自然破壊が起き、人間の生活も破壊され、今後何十年か何百年か続く大きな災害に見まわれました。同時に、科学者に対する信頼も崩れました。科学者のみならず、専門家一般に対する信頼が大きく崩れました。私自身は研究所に所属するプロの研究者なので、ある意味科学に対する信頼があります。研究所とは、そのような信頼を体現した組織であると思っていたわけです。でも、研究所の人と話していると、意外なほど鈍感で、専門家に対する信頼が大きく崩れたということを気付いていないように見える人が大半でした。それでこの先、私は何をやっていくのだということを考えたときに、科学に対する信頼を取り戻すための努力をしようと考えたのです。そのための一つの道として、ユーザー参加型研究というアイデアを考えました。科学者や専門家が特に非難の対象となっているのはなぜかというと、そこに一般の人と専門家という二つの分類があるということが前提になっているからだと思います。しかし、私の理解で言えば、科学とは単なるメソッドなのです。科学的に思考したり、科学によって何らかの結論を出したりすることは、専門家だけができることではなくて、誰でもできることです。にもかかわらず、科学者がこう言ったから、専門家がこう言ったからという言葉が前提となって社会ができていて、その二分を強める方向に向かうことが多い。それを解消するには、やはり科学そのものは特別なものではなくて、誰でも実行できるメソッドなのだということを伝えたい。仮説検証のサイクルを回すことが科学の目的であって、それを誰もがやるようになれば科学の信頼は取り戻せるはずだと考えました。一般の人とプロの研究者の対話の場といったものはすでに周りにもたくさんあったのですが、それをもう1歩進めて、一般の人が自分なりに考えた科学というのを、そこで発表してもらい、それをプロ研究者はプロ研究者としてこれまでの研究者人生について発表していただき、その両者を同じ場で披露することによって、科学について共に語る場を作りたいというのが、もともとのニコニコ学会βのコンセプトなのです。ですので、ユーザー参加型研究を推進する場という題目にしています。

名前に関しては、ニコニコ動画というものがあって、それに乗って放送することから、ニコニコ学会βとしました。

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奥田 要は、3.11によって、科学者の科学的思考や科学的なパラダイムと言ってもいいのかもしれませんが、そのようなものの限界が見えたのです。やはり日本人は、あそこにアッラーの存在を見たのだろうと思っているのです。つまり、人間の力ではどうにもならないことがあるということを思い知らされたのではないかということです。ノアの箱舟の話でも、突然洪水がやって来るのです。キーアイテムは、水なのです。「水が欲しい」と乾ききっているのが現代社会の人間のあり方かもしれません。とにかく乾いています。飲んでも飲んでも癒えない渇き。要するに、砂漠化が進んでいるのは、本当の砂漠だけではなくて、人の心なのです。そのときに、そんなに乾いているのであれば、あなたたちはこれでも飲みなさいと言わんばかりに大きな水が襲ってくる。、あまりにも人間の欲望が行き過ぎると、ある意味天罰が下ってくるのです。

 アラビヤ語で雨というのは、単語が雨粒1個という単語なのです。マタルと言うのです。雨1個なのです。それは雨が少なくて貴重だからです。雨がたくさん降ってくることを、アムタールという複数形で言うのです。その意味では、命を救ってくれるのも水なのだけれども、同時に人間の欲望や命を奪ってしまうのも水なのです。

 原子力発電所なども含めて日本人の今までの生活は物質的に豊かですが、その豊かさはいろいろな人々の犠牲の上に成り立っているのです。日本だけはとにかくこんなに美しい国なのだけれども、これがそうなるためには、結構世界の裏側に行ったら、巡り巡ってひどい目に遭っている人がたくさん居るのです。あの3.11は、日本人のそういうことに対しての警鐘であったと思うのです。なぜか知らないけれども、日本は、そのようなときに、問題を日本だけのことにしてしまいがちです。それでは、つまるところ「震災復興すればいいのでしょう」という話にしかならないのですが、そうではないのです。日本人がバブル期のときは、欲望に任せてお金を使い、失われた10年あるいは20年のときは、人々はとにかくお金のリンクから排除されないように安いものを買いあさり、お金の動きから置いていかれまいと欲望に突き動かされて生きてきた結果が3.11なのかなと思うのです。

 ですので、日本人ここで何を思わなければいけないかというと、私たちが一心に信奉してきた科学は、決して万能ではないということであり、科学によって間違えることもありうるのだということです。クルアーンにも出て来るように、当時の技術を駆使して、岩などをくり抜き、、自分たちの合理的な知見に頼っていた民が必ず滅ぼされているのです。理性偏重主義は本当に怖いのです。そのことを3.11は教えてくれているのです。

 だから、このような学会の動きも、要は専門家が机の上で考えて、専門家集団だけで議論したことは心が入りこむ余地がないのです。一般の人たちは、先ほど言ったような素朴な感覚、ちょっと何かある、少しモヤっとしていることがあることを察知するかもしれませんが、教科書を読んでもそこのところは拾ってくれないし、学校へ行っても先生はその辺のことはぼやかしてしまうし、そんなことは全然悩みではないとされてしまうのです。しかしながら、大概において、学問などは悩ましいものなのです。割り切れるなどということはないのだから。そこの悩ましいところを、いかに言語化して、あるいは悩ましいところをいかに捉えるかという辺りが学問のテーマになるわけです。したがって、あまりにも分かりやすい説明というのは、危ないのです。この分かりやすさの上に権威主義が乗ってくると、もう最悪です。分かりやすい説明と分かりやすい権威、これらには勉強すれば近づけるかもしれませんが、もやっとした部分が拾えるわけではないのです。

 だから、それこそ、このアカデミズムの頂上に登る努力と、先ほどのアッラーの真理に行きつこうとする努力は全くの別物です。要するに合理主義あるいは科学主義においては、そこで「神が」と言ったら、ヨーロッパ的な考え方では、科学が成り立たなくなってしまうので、に置いておきます。「神だ」と言って作られていた構築物で有名なものの一つに教会があります。これが非常に強大で巨大な構築物で、みんなそれが神だと思っていたわけです。でも、宗教改革をやったり、ルネサンスがあったりして、それは違う、教会の権威などだったのではないかということになったのです。そして、教会をへやってしまった。それは良かったのだけれども、ついでに神様まで脇にやってしまったのです。そうすると、今度、理性が出てくるのです。先ほどイスラームの科学がどうして発達したのかと言ったら、神様が教えてくれた部分を意識しながら、人間が科学をやったから、つまり、この二つが入れ子の構造になっていたから、うまくいったということです。しかし、科学と理性と宗教を別のものにして宗教は関係ないから、それは個人の問題だからと言って、みんなそれぞれの心の中に収めてしまって見えるものの世界で、科学で頑張ろうと言ったら、先ほど言ったモヤモヤ感や違和感などを持つようになったのです。本当はそのようなことが気付きで、そこから広がっていかなければいけないのだけれども、大学の教育がそういう芽を全部摘むのです。

江渡 そうです。

脇田 そうなのです。それを、多分江渡さんは先ほどからシンパシーを感じていらっしゃると思うのです。

奥田 そうです。だから、そこのところで、普通の人たちが、そういう意味で日常の素朴な感覚で思えること、それを引き出すことがすごく重要なのです。要するに、大学の権威のある人たちは、自分の言葉で語ってくれなかったら拾わないのです。大学の先生は自分の分かる言葉で言ってくれないと「いい」と言わないのです。みんななんとか理論を持っていて、それに乗ってこないと「うん」と言わないのです。ということは、どんなにいい考えを持っている学生が居て、その人たちがどんなに言っても、先生のキャパシティーがこれだけしかないところでは、全然評価してもらえないのです。それに比べると、江渡さんがやろうとしているような、オープンな場所でみんなが入ってこられて、誰もが自由に批評ができる、そのような討論の場所があることはすごく重要です。そこが、大学のピラミッドの中に入った途端に、ある種の言い方になっていないとうまく拾ってもらえなくなるのです。そうすると、人々は、本当にモヤっとしたことを素直に表現できる場所がないわけです。引き出せないのです。今の大学がつまらないのは、そのようなものをうまく引き出してあげようという気さえないからなのです。大体、予算に使われてしまっているところがあるようにさえ思います。国家の下請けになってしまっては仕方がありません。普通であれば、シンクタンクに頼んだらお金が掛かります。でも大学の研究室に頼んでおけば、学生たちが授業で面白がってやるからいいのだということはないと信じたいところですが、大学の善意が利用されているところがないとは言えないのではと思うのです。

江渡 湘南藤沢学会は、その辺はどのようにやっているのですか。

奥田 湘南藤沢学会では、雑誌を作っていますけれども、特集を見ると、例えばあるプロジェクトを何年間かでやった人たちに成果を発表してもらうというものが多いのです。しかし一つの専門にだけ偏ってしまったのでは、つまらないのです。どんな専門でも受け付けますという雑誌です。場所があることはいいことだと思うけれども、このキャンパスは専門が違う人たちが専門の違いを超えてコラボレーションしていくことが特徴なのです。でも、藤沢のキャンパスは放っておくと、どうしてもタコつぼ化する傾向がある。百いくつのタコつぼがあって、そこから出てこようとしないではもう駄目なのです。かつては、大学院の中間発表や最終発表で、私たちは電気自動車やバイオの発表などを聞いたものです。というのは、最終発表は素人の人、非専門の人でも分かる言葉で、自分の研究成果を伝えましょうということが趣旨だからということで、あえて非専門の先生たちが聞いて、修士の研究などを教えてもらっていたわけです。最近は、それも全部プログラムという専攻の枠で仕切られています。そうした発表もプログラムごとに行われます。ある意味精度は上がっていくのかもしれません。しかし私の所属するグローバルガバナンスとリージョナルストラテジーというプログラムの発表会に脇田先生がやって来て、意見を言うという機会があると、すごく活性化するし、お互いに関心を引き合えると思うのですが、、制度としてそうはなっていません。ですので、私としては学会がそのような場所にならないといけないと思っているのです。

江渡 面白いと思う論文を載せるために、何か工夫をされているのですか。

奥田 やはり全体を見渡してから、企画は決めるようにしています。わたくしたちのキャンパスにいらっしゃる先生方の名前と専門の一覧を俯瞰して、それから今回はこの先生とこの先生を組み合わせてみたら、何か出てくるのではないですかという形で、編集委員会では話を進めていきます。


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- 関心の芽は植えられるか

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脇田 ニコニコ学会βに一回参加させていただいたのですが、全員が他の人の研究に関心を持っているのです。無関心ではないのです。専門家は自分の言語で語らないと反応しないという現状をニコニコ学会βは崩しているのと感じました。

奥田 そういう意味ではSFCの精神がそちらへ行ってしまっているようにも思います。本当は私たちが本家なのだから、私たちの所でもう少し新しい形を提示していかなければいけないと、切実に思います。私は、受験した人たちが大学に合格しただけで満足するような感じでの受験勉強はくないと思っているのです。受験生たちの多くは、予備校や塾に行きます。対策を授けられて、みんな試験を受けてきます。試験を受けて、受かります。そうすると、彼らはそのために勉強をさせられているので、受かると達成感、満足感で終わってしまうのです。入ったときにはすでに、燃え尽きている。もうこれで慶應大学生になったし、やれやれという感じです。ということで、私の本当に個人的な構想ですけれども、予備校に行かないでSFCに来なさいという種類のことを学会でやれないかなと思っています。

江渡 面白いです。

奥田 つまり、予備校に行ってしまうと、ゴールが大学入学になってしまうのです。しかし、湘南藤沢学会でそのような種類のスクールが立ち上げられれば、そこでうちの若いオーバーマスター、オーバードクターの人たち、あるいは引退した先生たちなどに、高校生に基礎力をつけ、いろいろに鍛えてもらって、ここから先は入ったらいくらでもできるからというような、そういう種類のスクールができると裾野が広がるかなと思っています。そして、もっと学問横断的にやれるのではないかなと思います。つまり、大学に入ったら終わるのではなくて、大学に入ってから伸びていくような関心の芽の持ち主を見出し、入ってほしいのです。多分高校の先生たちは、結局、行き先が決まればいいというようなところがあるし、予備校は入れればいいわけです。しかし、大学としては来た人に勉強していただかないと。

江渡 関心の芽は植えられるものですか。

奥田 私は植えられると思います。

江渡 いや。やはり元から持っているかどうかが違うなというのが、私が思っていることの一つです。そういう人をいかに発見するかという見方が、私は強いです。

奥田 そうですか。私は逆で、それは、このように恵まれた状況の中で、例えば貧困問題を考えるときに、なかなか自分の問題として引き付けることは難しいかもしれない。だから学生たちが、例えば「国連の職員になりたい。貧困問題をやってみたい」と言う。それは分かるけれども、そのときに、結局、国連の職員になりたいのです。貧困問題をやりたいのではなくて、どちらかと言うと、そのような国際舞台で活躍するような人になりたいと、ぼんやりと思っているという種類のことなのです。そのときに世界の貧困の問題について、高校ではなかなか教え切れないような、そして大学に入ってくると確実に最初に教わるような種類のことを、若いときに、ある意味きちんと印象的に教えてあげることによって、関心の芽を植えることができると思います。

 ひどいのです。例えば「〇〇をやりたい」と言ってゼミに入ってきた学生がいたとして、それが丁度研究室でもすすめているプロジェクトだったとします。夏休みにそれについて海外へ出て調査を行っても、その学生は参加してきません。サークルなどいろいろ忙しくてということもあるのでしょうが、本人によく聞いてみると「このテーマは、予備校先生にSFCに入るためには何かテーマを持たないと駄目だよと言われて、そのときに考えたものでした」と言っているのです。

脇田 動機付けできるのは本当に学校なのか、それとも学校の外なのかという話です。

奥田 だから、それが学校の外の経験を学校の中で整理して、自分のものにしていくということなればいいと思うのです。要するに、学校の外でいろいろなことが起きる。先ほど言ったようにここは森羅万象、全部アッラーの印に満ちているということで言えば、入り口は何に引っ掛かってもいいのです。しかし、そこのところのこれはどのような仕組みなのかということは、ある程度頭を整理しないと、ただ「そうです」と言っても、お話にならないのです。だからそこのところは、大学がやるべきところだと思いますし、それは研究で積んでいける部分だと思います。

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脇田 むしろ、それだけでもいいのかもしれないです。高いモチベーションを持たせられただけで、もうそれだけで大学に行く意味があるのかもしれない。

奥田 それで、例えば、専門の先生たち、それからあふれる専門の図書とそれから検索がいろいろできる環境、そういうものが用意されていて、そういう所に4年、6年、10年なり居て、ある種の成果を出していくということで、どこに向かっているのかがはっきりしていれば、私は、大学はまだまだ価値があるし、むしろ、今、大学が頑張らないでどこが頑張るのかと思います。

 自分の子どもたちのために自分でせっせと稼いだお金を教育費につぎ込んで、慶應大学のような学費の高い大学に入れて、親たちが一生懸命子どもたちに勉強させるなんていう奇特な国民は居ないです。この前、大学の仕事で、アブダビに行ったのです。王様が全部お金を出すのです。そうすると、学んでいるほうは、なぜ学ぶのかも分からないまま、そこに奨学金があるのです。

脇田 日本の場合は120単位を取ったら学位取得になるわけです。授業を受けることイコール学習として扱われている訳で、それはどうなのかという話です。MOOCやiTunes Uが普及して、スタンフォードやMITの一流の講義を英語が分かればネットで聞くことはできる。ニコニコ学会βのようなコミュニティーもできていて、大学という文部科学省が決めた組織や制度に依存しなくても、実は研究したりモチベーションを高めたりすることができるのではないかというのが、実は今年のテーマを考えたきっかけなのです。その辺はどのようにお考えですか。江渡さんは恐らくそのようなところを切り崩されている、と私は考えています。

江渡 当然と言えば当然かもしれないけれども、純粋に動画だけによって成り立つとは、全く思えないです。やはり会う機会が必要です。会って、話をすること、顔を合わせることによって進展が促される状況は絶対に必要です。

奥田 私は思うのです。例えば、車を運転するときに、仮免許の状態があります。取りあえず仮免許を持っていて、先生が横に付いていて、路上で乗れるけれど、決まった所しか乗れなくてという状態のときがあって、それから試験に合格して、本免許をもらえます。大学は多分、その人が一生これから学び続けるだけのモチベーションと方法を教えてくれる場所だと思うのです。だから、そのインフラがあればこそ、ニコニコ学会βも走っていくのだと思います。何でもありと言うけれど、本当に何でもありかというとそんなことないのです。そこには、ある程度、例えばこういう関心でこちらの方向のそういうそっちだよねというのが、何かあるわけです。それを分かる嗅覚や、それからそういうことに対してきちんと筋道を立てて考えられる思考力などは、ある程度の訓練がないと誰でもできる話ではないわけです。特に才能のある人は、もしかしたらそういうことができるのかもしれないし、学校だけがそれを学ぶ場所ではないから、他でもできます。しかし学校という入れ物は、そもそもそういうことをやるための場所なのです。問題はそういうこともやらせずに、学生を何か他のことに使っているということなのです。その辺の指導をきちんとしない大学が問題なのであって、大学という入れ物はまだまだ可能性があるし、社会的な役割はむしろ高まっていると思います。なぜなら、国と国の仲が悪い状態で両国の関係を保つことは、国のチャンネルでは無理です。商売のチャンネルもいつもそんなに強いわけではありません。そのときにアカデミズムには、人をやりとりしたり、そこのところでお互いに知恵を出し合ったりということができます。そのチャンネルは確実にあります。イスラーム圏とやっているとその重要性を強く感じます。商売はそんなに繁盛しているわけでもないし、人々はみんな「イスラム怖い」と言って逃げてしまう中で、研究やっている人は、きちんと向こうの普通の人たちのことを分かっていますというメッセージを出し続けることや、向こうからそのような声を拾い続けることには意味があるわけです。

脇田 今の話はぐっときました。大学の役割は二つあると考えていました。一つは教育する装置で、知識を個人や社会に広く伝える。もう一つは研究する組織で、企業ではリスクやコストが高いことをやる。でも三つ目があって、人と人をつなげる触媒になるということですね。

奥田 それで、多分そこが純粋な興味というか、まさに真理の探究というやつだと思っています。真理が何か、それは時代によって変わるかもしれないけれども、それでも人間は正しいことや真実などを求め続ける生き物なのだと思うし、それが学生なのです。アラビヤ語で学生のことをターリブと言うのです。ターリブというのは、求める人という意味なのです。何を求めているのかというと、アッラーの真理です。

脇田 だから、そこで真理を求めている学生がどれだけ居るかにまた戻ってしまうのです。

奥田 結局、その辺のオリエンテーションからしっかりやることが大切です。先ほど学校を作ったらいいのではないかと言ったのは、そこのところを高校だけに任せていられないし、予備校に行ってしまうと学生はどうしても合格しておしまいになってしまいがちだからです。入ることを目的にされて、大学に入って勉強しなければ、無駄な教育費はかさむばかりです。それならば、湘南藤沢学会の学校に来てもらって、そこでいろいろな専門の先生たちから最新の知識をもらって、これならば面白いからやってみたいという気持ちを引き出すということができないかと思うのです。大学に入って、頑張ってやってみようと方向付ければ、もちろん若い人たちなので、いろいろあるのは分かるけれども、それでも見失わないでやってくれるのではないかと思うのです。そこからやらなければいけなくなったのが、要は今の大学の悲しいところではありますが。。

 それに、企業が採用に当たり、その学生が大学でどのぐらい勉強したかなどこれまで全くと言っていいほど気にしてこなかったのです。の辺りに改善の兆しがみられるのは、最近の話です。だから、もっと大学で何をやっていたのかを、会社の方きちんと評価する気にさせるような研究・教育の実現が大学には求められていると思うのです。

 私たちは、今でも、キャンパスでかなり真面目に学生たちのことを「未来からの留学生」と言っています。江渡さんの頃は、もっと真剣に「未来からの留学生」と言われていたはずです。いま改めて学生たちには未来からの留学生たれと思います。未来は、素敵なことに、国境で仕切られることもなければ、人種の違いも民族の違いも金持ちか貧乏かの違いもない世界なはずなのです。そうした未来から来た学生のはずなのに、金持ちのために勉強し、日本のために勉強し、そういうすごく小さい話になっていってしまったら、世界など狙えないし、「真理」の印など全然見えてこないです。


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- 超越した場としての学会

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脇田 残念ながら時間も迫ってまいりました。今、誰のために勉強するかという流れになっているので、その辺りのお二人のご意見を少しいただいて、締めたいと思います。

江渡 今日は本当に原理的な話でしたね。私の観点から言うと、「野生の研究者」はやむにやまれぬ衝動で自分が研究したいことを研究する人なのだけれども、それも実を言うと、アッラーのデザインだということなのですよね。分かります。それは正しいと思います。私はどんな人でも、なにかをやるために生まれてきたのだと思っています。ただ、すごく難しいのは、なにかをやるために生まれてきたのだということ自体を忘れてしまう人がたくさんいるし、やるべきことを探すのに苦労している人もたくさんいる。その中で、野生の研究者はすごく幸せなことに、やるべきこと見つけることができて、それをやっている。私が言いたいのは、それは実は社会的・経済的に見ると不利な選択をする結果になっていることが多くて、だからこそ支援をしたいし、大事にしたいのです。何かに突き動かされている、その人にとって本当に大事なことをやっている野生の研究者を大事にするための場として、ニコニコ学会βがこれからもあるといいなと思っています。

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奥田 きょう、アッラーなどと言って、最初にイスラームの話を出してしまったのですが、もう一つ、多分クルアーンを読むと分かることがあります。それは、アッラーは何をヒントとして与えてくれているのだろうということです。先ほど、日本の歌の話を少し話しかけたのですが、日本人は地震を見て、自ら歌を詠むわけです。クルアーンは向こうから歌が下りてくるわけです。テキストが下りてくるのです。日本人は常にそうやってこれを見て、周りを見て、自らそれをまさに読んでいくのです。そういうのが日本人の在り方です。確かに預言者が居て、こうやって本になっている啓示という形では、日本人は、確かに啓示は受けていないかもしれないけれども、啓示的なものをつかみ取ろうという努力は、日本人はもうずっとやっているのです。それで、天皇の統治の形についても、専門家の中には、それがいわゆる西洋型の、領土があって領土を支配するという統治のやり方ではなくて、歌を歌って治めるやり方であるという指摘があります。だから、それは、要はそのようなある種の共通の言語なり、共通のコードを、歌を通じて示すことで人々をまとめていくのです。だから、それが日本の天皇制だと言うのです。そうなると印画紙の表とのような、つまりポジとネガのような感じはあるのだけれども、日本人の精神世界は、クルアーンの世界とそれほど遠くはないのです。どちらも読むことが基調になっているのです。それで要するに自然なり、その向こう側にあるものと、きちんと向き合おうとしているのです。

 今、この大学がある場所は日本です。だから、アラビヤ語を勉強すれば啓示も読めるわけです。それから、この豊かな自然の中で、自分たちが敏感にそのようなものと向き合いながら生きていけば、繊細にいろいろなことを感じ取ることができるのです。だから、すごくいい環境に居るのです。

 私たちが何を求めて研究をやっているのかといえば、そういうもの全部説明してくれるようなもの、つまり真理を求めているのです。科学はそれを法則や、ある種の定量性や定性性のようなものや原理などで表そうとしてきたけれども、それではどうも足りなくて、それ以上のものも含めて、真実や真理にはまた別のレベルでありそうだということがだんだん明らかになってきていると思うのです。それで、今、日本の状況でも、大学のアカデミズムが科学信仰から脱却して、その次の段階に手が届きつつあるのではないかと思います。それは啓示と理性ということでもあるのですが、理性ばかりに頼るのではなくて、啓示的なもの、日本的には皆さんがそこはかとなく共有しているある種のもの、それはなかなかテキスト化されていないかもしれないけれども、そういうものも含めて、私たちの、単に科学ではなくて、いわゆる学問的な思惟の中に取り込んでいくということです。そういうことを積極的に行う人が、多分学生なのです。そういう人々こそが学びの中に生きるという人々なのではないかと思います。そういう場所がSFCの中にできれば、とても喜ばしいですし、SFC自体がそうなってほしいと願い、私自身は日々研究教育活動に邁進しているのです。

 湘南藤沢学会も、またそのような種類の学びを求める人々の集まりになってほしいと思っています。そこには宗教の違いも人種の違いも何もありません。本当に一人の人間として、純粋に自分と周りとつながり、自分と超越的な向こう側とつながり、さらにその両方のバランスを持って見ることができるような、グローバルというスケールを遥かに超えた「真理の探究者」が生まれてほしいと切に願っています。

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奥田敦
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Atsushi Okuda
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慶應義塾大学 総合政策学部

教授/湘南藤沢学会 会長


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江渡浩一郎
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Koichiro Eto
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産業技術総合研究所

主任研究員/ニコニコ学会β実行委員長


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脇田玲
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Akira Wakita
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慶應義塾大学 環境情報学部

教授/ORF実行委員長


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